AS(受動型)でADHD(不注意優勢型)な人の自堕落日記。長文が過ぎるのは仕様です。
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 成人後に、発達障害(アスペルガー症候群と不注意型ADHD)があると判明。抜毛症。過眠から季節性鬱も疑われ中。
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Togetter: 発達障碍持ちの元汚部屋住人として、ゴミ屋敷・汚部屋に思うこと
 お久し振りです。

 汚部屋とゴミ屋敷について、最近Twitterで呟いたものをまとめました。

『発達障碍持ちの元汚部屋住人として、ゴミ屋敷・汚部屋に思うこと』
http://togetter.com/li/414713

 Twitterアカウントをお持ちでない方でも読めます。

 きっかけはTwitter上で汚部屋の写真が流れてきたことで、その後すぐゴミ屋敷の報道記事を見付けたりもして、ぼちぼち考えながら多少筆が乗ったので。
 随分前に汚部屋脱出を済ませており、その前後のことなどを少し書いています。
 (全てについては、今はまだ書けません。思い出すだけでも辛い部分があるので)


 「片付けられない女たち」というキャッチフレーズで、汚部屋の要因としてADHDが随分有名になりましたが、実際には他にも沢山の要因があると思われます。自閉症スペクトラムもそうですし、抑鬱、統合失調症、認知症、強迫性障碍なども関連が言われているようです。
 世間には単にキチガイとか極度の怠けと見られがちなのかも知れません。ADHDがあるとカミングアウトしてもなお怠けと取られることがあるほどですし。
 上記まとめの中では、私自身の体験から(だからとても個人的なエピソードですが)、異常者にも異常者なりの理由理屈や恐れの感情があったということを少しは書けたのかなあと思っています。


もしかすると汚部屋はそれ自体が私の繭であり装甲なのかもしれなかった。
http://twitter.com/navagraha_/status/272730430669717504
そう、そう。「見えている」のに「見えてない」んだよなあ。視覚情報はたくさんたくさん入ってきてる、訊かれれば色も分かる材質も分かる、だけど圧倒的不整理世界の情報量に頭が埋没してしまって、この先何をどうするとどうなるかの見通しが全然立てられなくて、それで呆然としてしまう感じだった。
http://twitter.com/navagraha_/status/273136737591648256
へたに偏った記憶力を装備していると、取るに足りない(自分でもそう思うくらいの)役に立たないささいなモノでも、「すぐ捨てずに置いておいた時の気分」などが思い出されて、それを思い切って捨てる=過去の自分を切り離す行為にいちいち傷付き続けるということがある。私はそういうことが多かった。
http://twitter.com/navagraha_/status/273139403017310209
| | 03:01 | - | このページのトップへ
戦う物語の呪い。
 「安易な闘争風スタイルの選択」は、「私/我々は被害者である」という心理的な雰囲気を得ると発動する呪いみたいなもんか。
 火花ひとつで噴き上がって「闘争している私/我々は正しい、ということを知らしめるのは正しい、ので大声出す正しい私たち」という。
 不安を喰う獣が誰の中にも棲んでいる、と。

 理解されない苦しさ共有して正しくなりたいもんね。
 守ったり守られたり変えたりの物語に参加できると思いたいもんね。
 世界という広大な場の中で、あるいは世間/周囲というもう少し小さいけれどやや公的な場の中で、それなりにはっきりした意味のある役を持った存在だと自分のことを思いたいわけね。書割りの電信柱や植木じゃなく。

 私も散々イタいことをしてきた。
 それがヘドが出るほど嫌いなカルトと薄皮一枚の差しかないって気付いたときのあの猛烈な嫌悪感、抑鬱の強い時だったらマジで自決したかもしれない。
| 日々の駄文 | 01:15 | - | このページのトップへ
顔と地理と乗り換え。
 以前Twitterで貼った、割とお気に入りの画像。
 http://twitpic.com/4ximgo

 色々な人に見せたが「目が上手く見られない」「あとで顔を思い出せない」というコメントが多く、もしかして私が人の目や顔をしっかり見られない感じとどこか似ているのかなーって思って、時々眺める。種類は違いそうだが。


 例えば一番最初にかかった精神科のお医者さんの顔をこれっぽっちも覚えていない。ある日クールビズになったことや左手の薬指に銀色の指輪をしていることははっきり覚えているのに。先生が使っていた判子、机の上のカレンダー、ブラインドの向こうに見えるエアコンの室外機、全部覚えているのに。


 ついでだが、半年以上通ったその診察室を出た後、左右どちらに進めば会計に行けるかを毎回毎回丁寧に忘れた。
 自動車学校では結構地図が読める方だと言われたのだが、そういうのは何か別のことで見当をつけている可能性がある。(これを書くのは、相貌失認と地図オンチの関連性を読んだことがあるから)

 そもそも高校生の頃、極めて頻繁に通過する道についてでさえ、名前と結びついていなかったり目的地へのルートとして想起できなかったりする傾向がかなり強いことに気付いた。
 高校の学区は割と広く、方々からみんな通ってきていて、遠くの話やどこそこへ行ったという話をするのに「**橋を通って**の近く」的な説明描写が会話の中に増えたが、聞いてる私の方では、「知ってる名前だけどつながらない」「市民なら誰でも知ってるらしいが分からない」ということが結構多かった。
 私がとくべつ出不精ということはなく、かなり街を出歩いていたし行動範囲自体も割と広かった、「にもかかわらず分からない」という点が不可解だった。記憶力で大幅に劣るタイプではなかったから。

 こんな話、前にも書いたっけな。高校の通学では乗り換えが2度あったんだけど、それが1年の4月でも3年の3月でもほぼ同程度に綱渡りだったという話。
 学習が無効化されまくっているこの感じ。頭に入ってこない。「どっち行きのホームに行くからこの階段」とかが全くセットされない。


 人の目がうまく見られないことについては最近、「人の顔は情報密度高過ぎ・高エネルギー過ぎて本質的な恐怖を呼ぶのではないか」ということを考えている。
 放たれる情報が多過ぎて速過ぎて目が眩む、あるいは炎を見つめ続けたりその形を正確に見て取るのが難しいような、そんなイメージなのかもしれないと考えているが、あまりまとまってはいない。
| 日々の駄文 | 20:09 | - | このページのトップへ
外から見ての「平気」って価値がないこともある。
 昔々、「お前なら目の前で人が死んでも平気だろうね」って言われたことがある。
 後から考えると、どうやら私はその人に馬鹿にされてたというか蔑まれてたらしいのだけど、その人にとっての「平気」っていうのは単にその場で動揺を表したり泣いたり慌てたりしないということのようだったから、人の内面で何が起こってるか想像する習慣がなくて自分に分かる形で見えなければダメな人なんだな、と思った。
 少なくとも「感情を押し隠しているようだ」ということが見えていなければいけなくて、本当に変化が見えない時には内側でも何も感じていない、と短絡的に考える人は、もしかしたら結構いるのかな、と思う。

 自分のコントロールを手放すことがひどく怖いので、緊急時にはそのコントロールを掴み続けることを優先するように私は出来上がってきた。
 例えば目の前で人が事故って血みどろになったのを見たとして、泣いたり叫んだりする代わりに、考えることは有用であると同時に私にとっては逃避でありカームダウンである。だからそうする。

 訳が分からなくなって感情任せになってしまったら、身体にも影響が出るし精神的にも元の位置に自分を戻すことがかなり手間だということを、既に知っている。
 そのために周囲の優しい人は私に気を遣い余裕のない人は私のせいで更に余裕をなくすることも、既に知っている。
 緊急時であればあるほど、私は周囲にマイナスの影響を及ぼしたくない。

 けれども、私のやり方は世間的にはそんなにうまくないのだと思う。
 結果として、「お前なら目の前で人が死んでも平気だろうね」と人非人扱いを受けることもあるわけだから。

 多分こういうことに「こうすれば正解」というものはなくて、その場その場でふさわしい(とされる)振る舞いがあるのかもしれない。それを探るには私の頭は非力過ぎる。強いてそうすれば随分長い時間何もできないだろうし、とんでもなく疲弊するだろう。



 「アスペには心がない、まともな感情がない」といった趣旨の表現を見る度に、なんとなくそんなこと考える。
| 日々の駄文 | 23:50 | - | このページのトップへ
趣味としての、目的としての攻撃。
 気持ち良さそうに人を罵る人や、「罵ることができる自分」が好きでそこにレゾン・デートル見出してるんだろうなあというのが見えてしまう人の、ある意味でのピュアさ・狭さ、というものを悪魔だと思う。
 単に外から憑いているのではない。自分で産み出し、それに飼い慣らされている。(無論、私も人のことは言えない)

 「自分には指摘する力があるのだ」「お前よりも知っているし理解しているのだ」ということをアピールする手段が主に悪罵、人格攻撃、というのは、どうにもなあ。
 実際、間違いや筋違いを人目のある場所で指摘しなければならない局面というのは世の中に案外多いけれど、多分他にもっと上手いやり方があるはずなのだ。
 自分だって間違っている可能性があるわけで、そう気付いて振り返った時に「調子に乗って感情的な罵声を浴びせることを楽しんでいた自分」がたくさん見えた場合、その収拾のつかなさはかなりのものだと思う。


 ただまあ、そういうのとは少し別の話として、筋の上でどうしても、きちんと相手の喉元がっぷり咬んで、腹出して寝転がるまで許さない、っていうことが必要な状況は必ずあるのよな。
 狡猾とか卑怯とかいうんじゃない意味で、そういうの、上手くなりたいものだ。
| 日々の駄文 | 15:53 | - | このページのトップへ
感情的な報酬のこと。
 私は褒められることには無感動だった。問題が無いということだから。
 間違いを注意されたり叱られたりしないのであればそれで安心し、そこで話は終わって、褒められたことに対して反応して見せようという発想がさらさら無かった。

 「褒めると喜ぶだろう」と相手は少なからず思っているのだろう。
 その通り喜んで見せると相手もまた良いことをしたような気持ちになり喜ぶだろう。

 逆に、「そうですか良かったです」程度の反応しかないと、肩透かしを食らったように感じ、或いは「こいつは私を嫌いなのではないか?」「これを褒められることはこいつにとって嫌なことなのか?」と思われる、ことが多い、らしい。

 世間はどうやらそのように出来ている。

 しかし、そうした心の働きは私には、今もやや欠落している。

 私と関わってもはねつけられたように感じた、或いは機嫌が悪いのだと感じた人が、きっとこれまでに数え切れないほどいるだろうと思う。
 それを、ちょっと申し訳なく思うこともある。
| 日々の駄文 | 23:01 | - | このページのトップへ
上手じゃないピアノ演奏がどうしても許せない話。
 私の好きな曲をド下手に弾いた動画が全世界に公開されてる、というだけで忽ち不機嫌になってしまうので、ようつべでサムネ見て明らかに宅録っぽいと思ったら意識的に避けている。
 ピアノ曲ではほぼ打率十割で不機嫌スイッチを踏み抜かれてしまう。
 他の楽器ならド素人のヨタヨタ遊びでも許せるのになあ。

 結局のところ音楽は(特にクラシック音楽は)、お金出して得る演奏が質的に一番信頼度が高いし、自分で悩んで買うから失敗しても勉強料と思えるんだろうな。
 対してようつべ等は完全なる「安かろう悪かろう(っつか所詮タダ配り素材)」なので、玉石混淆なのは事実だが大抵は石にしか当たらない。


 (*これを書いたのは2011年の2月頃。その後、もう少し寛容な気持ちを持てるようになり、今ではお子様の宅録ガチャガチャ演奏もけたけた笑いながら聴ける日が出てきました。苦しみが減り始めてとても嬉しい。ただしこの記事は、そういうものがちょっと許容できないという心理状態のときに書いた文章に改めて加筆したものであり、その基本的な考え方は現在もそれほど変わっていません。)


 悪い意味で芸術至上主義というか、演奏者のスペックに関わらず『平等に』瑕疵を許さない、という頑固さが私にあることは、子供時代から言われていた。

 プロだろうと気に入らないものは気に入らない。
 小学生だろうと未熟だと思えば未熟と言ってしまう(勿論音楽がコドモなことくらいは許せるんだが)。

 おかしなフォーム、おかしなアーティキュレーション、汚いタッチ、汚い音、ただ弾いてるだけの無意味さ、そういったものを本当は、子供に対してはある程度許してやるべきなのだろうと思う。
 子供は経験年数的に圧倒的に未熟なのだし、まともに教えない先生の下でまともに練習せず自発的に色々聴いてみたりしない家庭にいたら、そうなってもしょうがない。
 とっても上手い子供なんてそんなにいない。ベタベタのゴチャゴチャでもコンクールの予選くらい出る。それを保護者が動画公開する。それもしょうがない。
 しょうがないということは、分かる。頭では分かるんだよ。

 でも気持ちが猛烈に反発する。軽い静電気の一発でコンビナートが爆発炎上するように激しくイラつく。
 なんでこの程度を公開することに平気でいられるの。
 なんで先生はこんなに何も教えてないの。
 この騒音が家庭に満ちていて何故平気で生活できるの。
 勉強してんのか?
 なめてんのか。
 ……と、怒ってしまう。

 これは、そこそこ良い演奏音源や楽器経験を与えられた環境と私の生来の融通の利かなさの、悪魔的な合わせ技だと思う。良し悪しだ。
 結局それが美術や文学、ポップミュージックにまで適用されて、私は文化全般に対して酷く小煩い人間になってしまっている。
 大して知識も実力も無い癖にである。難儀過ぎる。

 様々な弾き手の様々な状況というものを想像してみると、誰もがまともに音楽を学ぼうとしてピアノ習ってる訳じゃないし(内申点の足しになるからとかみんなやってるからとか、その程度で極めてライトに、ファッション的に習ってるケースも多いはずだし[それがまた私としてはイラっとするんだが])、先生にも生徒にもそして保護者にも音楽能力の個人差はかなりあるから、「下手=不真面目、なめてる」ということは真ではない。
 でもって、「下手くそでも楽しんでる」のが間違ってるわけではない。楽しくないより楽しんでるほうがずっといい。
 ここは頭だけではなく、気持ちでも分かる、のだが。
 私の耳は、あまりに中身のない演奏や、あまりに稚拙な演奏を、どうしても受け付けない。
 本当に不便だ。


 文句の多さって、基本的に、それ自体ではあまり幸せや快を生まないものなんだよね。
 私は、自分のこういうところについて、本当に損してると思うことがある。

 さかんに他人に文句を言うことで「分かってる私アピール」とか「教えてあげてる私に自己満足」とかしたくてしたくてたまらない人は、そういう発言をするのが気持ち良くて癖になるのかも知れないけど。

 かといって良いことばかり集めて意識を満たそうとするのも全く趣味じゃない。
 どうしても、どうしても、苦しみや空しさが、音楽をはじめとする芸術表現を『受け取る』ために不可欠だ。
 「私は幸せ幸せ」と自己暗示をかけて自分を騙していたら、私は決定的に鈍くなる。
 感覚にまで致命傷を負いたくない。

 まだ経験値の少ない小さい子供が弾くと、モーツァルトの鮮烈な哀しみも、バッハの信仰や教会の気配も、シューマンのまさに狂気と親和性のある夢の匂いも、薄い。
 それだけに、少しでもそういった所を出した演奏だと、先生が良くやったな、と感心する。


 この、ある意味での強迫的なストイックさと言われそうな心理は、私の考えでは未熟かつアマチュアながら表現者たろうとする勇気と覚悟であり、恐らくそれが、偉大な先人達と芸術に対する誠意のありかたのひとつではないか、と思える。くっそ偉そうですけど。

 まあ自負が過ぎて高慢に近付いてしまうとそれはそれで大変な弊害ではある。
 そこで「謙虚」という態度が極めて大事になってくるのだが、どうも私にはこの美徳、というか礼節と自戒の心が足りないようなので、死ぬまでには人並みになりたいものです。
| 日々の駄文 | 01:49 | - | このページのトップへ
「友情」の儀式がくそうぜえ。
 相手がどんなことを言うか七割方分かっていて、それが自分の趣味に全く合わないと分かっていてもなお、慰めてもらいたいと思うだろうか?
 そんなに参っている時に、来るかどうか分からない三割に賭けるような余力は私にはない。
 逆撫でされるだけだと分かっているのに徒労に終わることをやりたくない。

 それをただ「強いんだね」なんて言われて嫌になることもある。
 強さではない、防衛だ。
 だがそれは結構酷い態度なんだろう、何しろ「おまえを信用していません」という意志としての「相談しない」なのだから。
 「相談してくれない」ことが不満だったりするらしい。
 しないよ。わざわざそんな自傷行為。

 何でも困ったことを打ち明けて同情させてあげてアドバイスさせてあげて友達の証しを立てさせてあげるのが友情の作法らしい。
 要らんがな。何でこちらが参っている時に他人の欲を満たしてやるようなボランティアをせんければならぬのか?何で湿っぽくぬるぬるべたべたと馴れ合わねばならぬのか。


 今残っている友人というのはそのへんが必要以上に入り込んでこなくて、本当にバランスがいいし大人だし、良い人たちだと思う。
 大体、私のようなものと長年付き合えるというだけで既に器がでかいんだよ。
 私で自分の何かを満たそうとしていない。ただいてくれるっていうのがとても素晴らしい。


 写真も同じかもしれない。「これは**で**という表現がしたかったんだね」なんて言われたくなくて茫然としたものを撮っている。
 解釈されたくない。思い込まれたくない。
 文字の方でもシュルレアリスムが好きなのはそういう理由もあるのかも知れない。
 解釈を超えている。超現実。強い現実。



 何故、他者が、自分の理解の範囲内でのみ動くものだと頭から信じられるのか?(そうでなければ「あなたは本当は**なんだよ、だから**したんでしょ」的なことが言えるはずがない)
 現実は常にワンオフだ。
 世界は差異と偶然で出来ているし、愚かな私やあなたの想定の範囲を遠慮なく超えて行く。



 これを書いた直後、「頭おかしいし寝るわ」と書いている。
 正しいと思う。
| 日々の駄文 | 20:52 | - | このページのトップへ

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